言葉が変わってよかったと思ったこと

今更ながら、NHKの虹色クローゼットを見返した。気になって録画して、まだ見ることができていなかった。10代の言葉を聞いていくうち、昔、同じ内容で苦しんでいただろう人が身近にいたことを思い出した。変な同情は当事者を傷つけるだろうが、当時の友人も同じ内容で葛藤していたと思う。

 

当時はそんな状態の人を性同一性障害としか呼べなかった気がする。もちろん、言葉として医学的な領分にあるのはわかるが当時小学生だった頃も、あまり好ましいと思っていない言葉だったように思う。だから今の時代になって「トランスジェンダー」という単語が出てきたことで(もちろん、二つの言葉に違いがあることはある程度理解したつもりになっているけど)、そういう状態にいる人たちのことについて、そうでない人たちが口にしやすくなったと思うし、議論しやすくなったと感じている。

かつての世界より確実に優しい世界へ近づいていると思う。これは非当事者の感覚だから、現実違うのかもしれないが、「障害」という慈悲も気遣いも何もない単語から脱却できたのはよかったと思う。

 

当時の知り合いがカミングアウトした時、幼い私はただ「そうなんだなあ」と思ったことを覚えている。昔からとてもかっこよくておおらかで優しい人だったし、悩んで性別を変えたと聞いたとき、その人が「過ごしやすい世界にしたんだ」と思って、よかったと思った。私と違う感じ方をしている人もいたと思うが、私は少なくとも、その人の魂と心が平安にいられるように過ごしてほしいと思う。

 

社会制度が追いつかないのは大量の人口を抱える国ではある程度仕方のないことだし、基本的に保守が強くなるのは致し方ない。

性別を変える人たち全てが人間性ができているのかと言われると、人間だから、そんな前提は馬鹿げているとしか言いようがないし、それは性別が一致しない人たちも、一致している人たちも一緒だろう。

みんなが過ごしやすい社会を作るために今は、議論を深める時期、時代なのだなと思う。だから、せめて私が老人ホームに入る頃、「いい時代になった」とぼやけるような時代になるように、今できることから始めていきたいと、なんとなく思った。